留学先やワーホリ先として、大人気のカナダ。住みやすい国としても常にランキング上位で、多くの日本人・日系人が住んでいます。
下記の記事にて、カナダには差別がほとんどない国だとお伝えしましたが、過去を辿れば、日本人に対する偏見や差別が横行する国だったことは、あまり知られていません。
特に、バンクーバーのある西海岸BC州は、反日感情が最も高く、日本人や日系人を追放した悲しい過去がありました。
カナダで人種差別を受けたことある?アジア人など有色人種側の意見まとめ|カナダの差別問題②
カナダBC州を目指した日本人移民
明治時代中期の1880年代後半より、日本からカナダへの移民が本格的に始まりました。内閣府が制定されたり、大日本帝国憲法が制定されたり、日本が近代化に向けて歩み始めた頃ですね。
カナダの中でも、BC州は鮭を始めとする海産物が豊漁であることから、ほとんどの日本人が出稼ぎ目的でBC州に定着しました。当時のBC州は自治領として発展するさなか。日本人移民は、鉄道建設や木業、炭坑などで安価な労働力として重宝されていました。
カナダに移住した日本人は、現地と同化することなく、日本と同じような街並みの日本人街を形成し、生活を送ります。
移民排斥の始まり
しかし、移民が定着し始めて間もなくして、下記のような理由から、移民排斥の動きが始まりました。
- 移民は雇用機会を奪われる脅威と見なされた
- BC州政府は白人社会を目指した(白いブリティッシュコロンビア)
- 集まって居住する日本人の姿が異様に見えた
Library and Archives Canada, C-023556
そして、1907年には「バンクーバー暴動」と呼ばれる中国人街や日本人街の襲撃事件が発生します。死者こそ出ませんでしたが、多くの店舗が被害に合います。
この暴動を機に、中国人や日本人の移民排除の動きが本格化しました。
ひときわ高い反日感情
有色人種に対する移民排除の動きの中でも、漁業で成功していた日本人に対する反日感情は、ひときわ高いものでした。
バンクーバー暴動の翌年には、カナダに入国できる日本人の数が制限され、日本人移民の入国数が激減。その後さらに制限が進み、1930年代後半にはカナダへの移民の道は事実上、途絶えてしまいます。
経済面での取り締まりも始まり、日系人の漁業ライセンス数が制限され、多くの人が廃業に追い込まれるなど、日系人の生活に打撃を与えました。
このように、移民排除の政策は進みましたが、それでも、すでに居住している日系人に対する反日感情が沈静化することはありません。満州事変の勃発をきっかけに、中国人へは同情的感情が高まる一方で、反日感情は悪化の一途を辿ったのです。
第二次世界大戦により、日系人は「敵国人」に
そして、反日感情が高まる最中に起きた第二次世界大戦。この戦争はカナダに住む日系人にとって「地獄の始まり」となりました。
1941年の真珠湾攻撃をきっかけに、カナダ連邦政府は日本に対する宣戦布告を行います。これにより、日本人だけでなく、日系カナダ人、帰化人、全てが「敵性外国人」とみなされ、厳しい迫害が始まります。具体的には、下記のような取り締まりが実施されました。
- 漁業の操業停止と漁船押収
- 夜間外出禁止
- 自動車やカメラ、ラジオなどの押収
- 日本語学校の閉鎖
- 日本語新聞の発行停止
- 日本と取引を行う日系人所有の会社は立入禁止
また、日本人が検挙されるなど、日系人の取り締まりが強化されていきました。
全日系人の強制収容
by Tak Toyota, courtesy Library and Archives Canada/C-46350
大戦中、日本が領地拡大していくにつれ、日系人に対する迫害はさらに厳しさを増し、ついには、1942年に全日系人、約22,000人の強制立ち退きが決定します。そのうちの75%はカナダ市民権を持つ人たちでしたが、日本のルーツを持つ人の全てが対象となり、市民権も関係ありませんでした。
さらに、強制収容される際には、全財産が政府により没収、そして強制処分させられます。
日本と同じく敵陣側だったドイツ系やイタリア系カナダ人に対しては、強制移住や財産没収などの処置は行われなかったことから、日系人に対する迫害は「人種主義差別」の意味合いが強い措置だったと言われています。
日系人はBC州内の収容所や、アルバータ州やマニトバ州の建設現場や農場などに、送られました。BC州内の収容所は、上記画像の通り、アルバータ州寄りの内陸地に設けられました。
by Tak Toyota/Library and Archives Canada/C-046358
ご存知のように、カナダの冬はマイナス20度、30度の極寒です。しかし、収容所の住居は、テントや掘っ立て小屋といった、暖房施設もろくにない劣悪な環境で、過酷な生活を余儀なくされ、命を失った人も多くいたそうです。
また、治安措置として、強制収容所への出入り道には衛兵が設置され、外部の世界とはほぼ断絶されます。政府からは生活費が支給され、収容所内で買い物をし、生活を行いましたが、その額は非常に少なく、食料品を購入するのもままならかったといいます。
戦後も続く日系人排除
ようやく第二次世界大戦が終了し、日本が敗戦国となっても、日本人・日系人に対する不当な扱いは続きます。カナダ政府は、戦後、下記4原則を定めました。
- 日系人のカナダ全土への拡散
- 日本からの移民禁止
- カナダに忠誠でない日系人の日本送還(国外追放)
- カナダに留まった日系人の正当な扱い
カナダに留まる日本人・日系人に対しては正当な扱いをする、とありますが、実際のところは、カナダ国内に留まるにはロッキー山脈以東への移住が条件となりました。全く正当な扱いとは呼べませんよね。
これは、BC州での反日感情が非常に高いことや、軍事的脅威を解消するとして、BC州からの日系人追放したかったから。
住み慣れた西海岸への帰還が許されないことや、本人や家族の状況からすぐにはロッキー山脈以東へ移動できない人々は、カナダへの忠誠にかかわらず、日本送還を選ばざるを得ず、4000人近くの人が日本へ送還されました。
その後1949年には日系人のBC州への帰還が許可されたものの、分散政策の結果、戦前のような日系コミュニティは形成されませんでした。
また、日系コミュニティを形成し、日本文化を保って生活していたことが反日感情を生み、強制収容につながったと捉え、戦後の日系人は新たな差別被害を受けないために、日本語や日本文化を断絶し、カナダ社会と同化して暮らすようになりました。
不当迫害の補償を求めるリドレス運動
1971年、当時のトルドー政権は世界で初めて「多文化主義政策」を導入します。
この政策は、すべての国民をカナダ社会における平等な構成員として認め、民族的・文化的な多様性を評価するというもの。カナダは国を挙げて、差別根絶へと動き出したのです。
この多文化主義政策や、社会の風潮がビジブルマイノリティの地位向上を求めだしていたことをきっかけに、日系人コミュニティが連帯し、戦時中の日本人・日系人に対する不当な扱いに対して補償を求める「リドレス運動」を起こします。
ついに、1988年、政府は当時の対応に対して公式謝罪を行うとともに、1人当たり21,000ドルの補償を決定します。
仕事、財産、コミュニティ、住み慣れた土地の全て失い、無一文で戦後の生活を立て直さなければならなかったことを考えると、この補償は決して十分なものだったとは言えません。しかし、リドレス運動の成功は日系コミュニティの地位の向上や、日本人としてのアイデンティティを取り戻すきっかけへとつながっていきました。
おわりに
今回の記事を書くきっかけとなったのが下記の本でした。
カナダの政治や歴史が知りたくて手に取った本でしたが、そこには、現代のカナダ社会では考えられないような人種差別の歴史がありました。中でも日本人や日系人に対する差別・迫害が一番酷かったというのは、日本人である私にとって、とても悲しい事実です。
今のカナダ社会で日本人が好意的に受け入れられているのは、先人たちが迫害に負けず、日系社会の地位向上に向けて努力し、築き上げたからこそなのですね・・。重い内容だったので、記事にするのは少しためらいましたが、日本人として知っておかなければいけない過去だと思います。
日系人の迫害の過去を知るには、妻夫木聡さん主演の「バンクーバーの朝日」という映画も非常におすすめです。
この映画は戦前のバンクーバーに実在した日系人野球チームが不当な差別を受けながらも、リーグ優勝する栄光について描かれているのですが、日本人移民の生活ぶりや、差別や強制収容の実態について知ることができます。
実際に私も見てみましたが、言われのない差別を受け、過酷な生活を強いられながらも、野球に希望を見出し、野球を通じて白人たちからも認められていく姿は、とても感動的です。そして、戦争の無情さ、差別のない社会のありがたみを改めて思い知らされます。
日本人や日系人の歴史を知るというだけでなく、純粋にストーリーを楽しむことができる名作なので、もしまだ見ていない方は、ぜひ一度見てみてくださいね。豪華キャストも素晴らしいです!