カナダに留学や旅行に行くなら、ぜひとも知ってもらいたいのが「カナダの歴史」。
私自身、いつも痛感することなのですが、その土地の歴史や背景を知っているか否かで、観光の充実度合が大きく異なります。また、カナダに移住したり、留学や赴任などで長期滞在する場合も、文化やニュースなどが身近に感じられ、カナダ生活をより深く味わえること間違いなし!
そこで今回は、「カナダの歴史を分かりやすく学ぼう!」ということで、3分で読めるカナダの歴史年表と、もっと踏み込んだ詳細解説の2段階にわけてご紹介です。
現代のカナダ社会にもつながるトリビアも取り入れながら紹介するので、歴史をより身近に感じていただけたら嬉しいです。
3分で学ぼう!カナダの歴史年表
カナダの歴史概要もともと先住民が住んでいた土地に、フランスとイギリスが進出。植民地争いを起こし、勝者イギリスの領土となる。その後、イギリスから独立し、現在のカナダ国家へ。
より深く知ろう!カナダの歴史まとめ
歴史年表で、大まか歴史の流れはお分かりいただけたでしょうか?!
ここからは「カナダの歴史を詳しく知りたい!」そんな方に向けて、もっと踏み込んで、時代ごとに詳しくご紹介していきたいと思います。
カナダの歴史:①先住民時代
カナダに最初に住みついたのは先住民でした。
今から4万~1万年前、まだ地球が氷河時代で、ユーラシア大陸と北アメリカ大陸が陸続きだった頃に、先住民たちはアジアからアラスカ経由でカナダに定住します。
先住民の方々がアジア系の顔立ちなのはそのため。実際、現代のアジア人と北米先住民は、古来中国人と共通するDNAを持っていることが分かっています。
北米大陸に上陸した先住民のほとんどが南方に降りて、遊牧の狩猟採集を送りますが、イヌイットと呼ばれる部族は大陸北部の氷原にとどまり、暮らしていました。
カナダの歴史:②ヌーベルフランス時代
16世紀になるとヨーロッパは「大航海時代」になります。北米にも植民地を求めたヨーロッパ人たちが進出し始めます。
一足先にカナダに進出したのはイギリスでした。イギリスの命令で、1497年にジョン・カボット(ジョバンニ・カボット)がニューファンドランド沖に渡来します。その際に、豊かなタラ漁場を見つけたことで、カナダはヨーロッパ人からの注目を集めます。
しかし、タラ漁場は夏場だけの漁場基地でしかなく、永続的な植民地建設はイギリスよりもフランスの方が積極的でした。
それは、フランス人たちがビーバーの毛皮を求めていたから。当時フランスではフェルト帽が流行してしており、その材料となるビーバーの毛皮は最高級品とされていました。フランス人はビーバーの毛皮を求めてカナダ内陸へと進出したのです。
1534年には、フランスの命令でジャック・カルティエがセントローレンス川を上り、現在のケベックシティ、モントリオールまで進出します。
さらに1608年には、サミュエル・ド・シャンプランがケベックを中心に植民地を建設します。この地はヌーベルフランス(ニューフランス)と呼ばれ、毛皮帝国として発展していきました。
現在のケベックシティにあるノートルダム大聖堂や北米最古の商店街プチシャンプランなどは、このヌーベルフランス時代に作られたものです。
下記の観光記事でも、ケベックシティの建物などを紹介しているので、良かったら合わせてご覧ください。
ケベックシティ観光ガイド【新旧市街編】全名所を効率よく回るモデルコースを紹介します!
カナダの歴史:③イギリスの進出
17世紀半ばになると、イギリスもビーバーの毛皮に目を付け、植民地をアメリカ大西洋側から北部へ拡大していきます。
まず、1670年には、イギリスがハドソン湾地域の毛皮取引を独占するべく、ハドソンベイ会社を設立し、ハドソン湾から河川領域すべてをイギリス領土とします。
ちなみに、ハドソンベイ会社は、現在のカナダにあるデパート「Hudson’s Bay」の運営会社です。現存する北米大陸最古の企業としても知られています。
カナダの歴史:④英仏戦争
そして、北米の植民地を巡って、イギリスとフランスの争いが激化していきます。
当初は大西洋側のアカディア地域(現ノバスコシア)で衝突を繰り返していましたが、争いは徐々に内陸に拡大。そして、1754年、ついにフレンチ・インディアン戦争で大規模な闘争が発生します。
名称だけ見ると、フランスと先住民の戦いのように聞こえますが、実際には、北米を舞台にした英仏戦争です。フランス軍が様々な先住民と同盟を結んでイギリスに対抗したことから、イギリス軍の視点からこの名称で呼ばれています。
この戦争中には、イギリス人がアカディア地域にいたフランス系住民1万8千人の財産や土地を没収し、強制追放するという悲劇も起きています。
カナダの歴史:⑤フランスの撤退とイギリス帝国時代
英仏戦争に勝利したのはイギリスでした。
1763年のパリ条約で、フランスはヌーベルフランスの領土から撤退し、その全てがイギリス領となることが決まります。
イギリスは、当初はフランス系住民に対して同化政策を取りますが、大帝国を形成していたフランスの存在は大きく、イギリス化を求めるのは困難を極めました。と同時に、アメリカ側のイギリス植民地で、独立に向けての不穏な動きもありました。
そこで、イギリス政府は同化政策を撤廃。フランス系住民やカトリック司教を味方に取り込む方針に転換します。
1774年にはケベック法を制定し、フランス語・カトリック教・フランス民放などを容認し、フランスと共存する道を取ります。これが現在のカナダにフランス語とフランス文化が残り続けている起源でもあります。
カナダの歴史:⑥アメリカ独立の余波
そして、ケベック法制定の2年後となる1776年、ついにアメリカの13植民地がイギリスからの独立を宣言します。13植民地はケベックも独立革命に参加するよう呼びかけましたが、ケベック法のおかげもあり、フランス系住民は独立には賛同せず、イギリスの植民地に留まりました。
ケベックの独立は免れたものの、アメリカの独立革命はカナダに大きな変化をもたらします。それは、イギリス系住民の急増です。
4万人ものイギリス王党派がアメリカを逃れ、イギリスの植民地であるカナダへ移住してきます。特に東海岸側への移住者が多く、ノバスコシアでは人口がいっきに2倍に増加します。
イギリス系住民の急増により、ケベック植民地はフランス系住民が多いローワーカナダ(主に現ケベック州)と、イギリス系住民の多いアッパーカナダ(主に現オンタリオ州)に分けられます。ちなみに、「カナダ」という名称は、この時初めて地名として正式採用されました。
アッパーカナダ・ローワーカナダという名称は、セントローレンス川の上流、下流を意味しています。地理的には上下が逆になっているので、混乱しがちです。
カナダの歴史:⑦英米戦争
イギリスから独立したアメリカは、カナダにとって脅威となりました。
そして1812年には英米戦争が勃発。これはアメリカがカナダの領土を侵略しようとして起こった戦争です。
一時はアメリカ軍にトロントを占領されるものの、撃退に成功。また、イギリス軍も抵抗を見せ、首都ワシントンの大統領公邸を焼き打ちにもしています。この時に焼け焦げた外壁を白壁に修復したものが、現在のホワイトハウスです。
しかし、結局のところはイギリス・アメリカともに決定的な勝利を上げることが出来ません。そして、1814年にはガン条約に調印し、英米戦争は停戦となりました。
この英米戦争によってアメリカとイギリスの領土に変更は生じませんでしたが、カナダ人の意識を大きく変えていきました。
当時、カナダのイギリス系住民の多くがアメリカから移住してきた人々だったため、アメリカに対して敵対心も抱いていませんでしたが、英米戦争をきっかけに、「アメリカとは違うカナダ人」としての自覚が生じ、ナショナリズムが形成されていったのです。これはこの後の連邦政府成立の動きにもつながっていきます。
ちなみに、世界遺産にも登録されているリドー運河は、この当時アメリカからの侵攻を恐れ、安全な運搬ルートの確保を目的に建設されたものです。首都オタワとキングストンを結ぶ北米最古の運河として世界遺産にも登録されています。
リドー運河については下記の記事でも詳しくご紹介しているので、良かったら合わせてご覧ください。
カナダ・オタワ観光ガイド②おすすめスポット徹底解説!モデルコース&見どころは?
カナダの歴史:⑧自治領カナダ連合政府成立
英米戦争は停戦となりましたが、まだまだアメリカに怯える日々が続きます。
アメリカとの国境を防衛するために、1849年バンクーバー島にビクトリアを建設し、植民地とします。また、1857年にはオタワを首都に制定し、国内の統制を図り始めます。
ちなみに、当時はまだ荒野だったオタワが首都に選ばれた理由には
- アッパーカナダとローワーカナダの中間に位置しており、英仏両サイドへ考慮した
- アメリカとの国境から離れており、侵攻されにくかった
このような理由が挙げられますが、当時のイギリスのビクトリア女王の気まぐれな鶴の一声だったとも言われています。
そして、1861年にアメリカで南北戦争が勃発すると、アメリカとカナダの関係も一触即発状態に。イギリスと良好な貿易関係を築いていた南部に対して、北部が怒り、その敵意をカナダ侵略に向ける可能性があったのです。
アメリカの侵攻に対抗するため、カナダはそれまで国内にバラバラにあった植民地を連合し、連邦政府を築きます。そして1867年7月1日、カナダ自治領として連邦政府が成立。
当初連邦政府に加盟していたのは、オンタリオ、ケベック、ニューブランズウィック、ノバスコシアの4州のみ。その他の州は内乱や経済問題などに妥協点を見出しながら、徐々に連邦政府に加盟していきます。
POINT カナダ自治領が建国された1867年7月1日はカナダの建国記念日として制定され、毎年7月1日は「カナダデー」として祝われています。2017年には建国150年を迎え、カナダ全土で盛大に祝われました。
ただし、「建国記念日」と言えど、そして、「自治領」と言えど、外交権や憲法改正権は付与されておらず、イギリス帝国のまま。実際の独立はまだまだ先です。
また、この頃にはアメリカとの関係にも変化が生じてきます。
連合政府を結成しても、広いカナダの土地を守るには、アメリカとの和解が必要不可欠でした。そこで、1871年には国境や漁業権利をめぐってワシントン条約を結びます。
この条約ではカナダの利益は無視されたものの、これを機にようやくアメリカによる侵略の脅威から解放されます。隣国アメリカの影響は大きく、この後は経済的な結びつきを強めていきます。
カナダの歴史:⑨第二次世界大戦と外交権獲得
1914年から始まった第一次世界大戦では、イギリス帝国の一員だったことから、自動的に戦争に参加することになります。
戦争では6万人以上のカナダ兵士が犠牲になりましたが、戦争への参加により、カナダの国際社会での地位が高まり、1920年には国際連盟にも加入します。
その流れを受け、1931年のウェストミンスター憲章では、カナダは外交権を獲得。イギリス連邦の一員として、イギリス本国と平等の立場が認められます。この憲章では、カナダだけではなく、オーストラリアやニュージーランドなどもイギリス連邦の一員として独立国家となりました。
カナダの歴史:⑩第二次世界大戦と日系人迫害
そして、1939年には第二次世界大戦が勃発。カナダは初めて自国の意志で連合国側に参戦し、さらに国際的な地位を向上するとともに、戦争特需で経済的にも大きく発展を遂げます。
しかし、第二次世界大戦は、カナダに住む日本人にとっては地獄の始まりでもありました。
もともとカナダでは反日感情が高く、日系人は不当な扱いを受けていましたが、第二次世界大戦をきっかけに、日系人に対する迫害はピークに達します。市民権のあるなしに関わらず、日本人をルーツに持つ人全てを「敵国人」とみなし、強制収容の措置を取り、人種差別的な迫害が行われました。
下記の記事でも日系人迫害の過去を詳しくご紹介しているので、良かったら合わせてご覧ください。
カナダは反日感情がとても高かった・・。日系人迫害と強制収容の過去
カナダの歴史:⑪イギリスからの真の独立
第二次世界大戦後のカナダは、植民地意識が払しょくされ、国民意識が高まります。
1965年には現在のカナダ国旗を制定し、1967年に国歌も承認され(ただし、実際の採用は1980年)、現在のカナダ国家を形成していきます。
ちなみに、それまでの国旗には、イギリス連邦の一員であることを示すユニオンジャックが含まれていましたが、新しい国旗はメープルリーフのみ。これにはフランス系カナダ人への配慮でもありますが、イギリスからもフランスからも独立した国家であることを象徴しています。
オンタリオ州を始め、もともとイギリス系住民が多かった州では、今でも州旗にユニオンジャックが採用されています。一方、ケベック州の州旗はフランス王家との関係を意味するフルール・ド・リス(百合の花)が。いつか、州旗からもユニオンジャックや百合の花が消える・・・なんて日が来るのかも、しれませんね。
さらに1982年には、カナダ法が成立し、憲法改正権がイギリスからカナダに移りました。
これは、カナダが完全に独立国家となったことを意味します。建国150年以上の歴史があるカナダですが、実は正式なイギリスからの独立で考えると、たった40年ほどしか経っていないことは、あまり知られていません。
カナダの歴史:⑫現代の多文化共生国家へ
カナダが独立国家としてナショナリズムを形成する一方、フランス系住民の間でもケベックナショナリズムが高まりつつありました。それはケベックがカナダから独立し、国家分断する可能性の高まりでもあります。
GDPの1/4はケベックが占めており、「ケベックの独立=国力低下」を意味するため、政府はケベック住民を尊重した政策をとります。それが1969年に制定された公用語法です。これにより、英語とフランス語が「対等な地位」を持つ公用語として認められ、政府機関では英仏両バイリンガル化が図らると同時に、フランス系住民の地位の高まりにもつながりました。
その一方、ケベック州内でも1977年にはフランス語のみを公用語とする法律が制定され、現在に至っています。
また、1971年には世界で初めて、民族や文化の違いを尊重し、全ての国民を平等な国家の構成員と認めるという「多文化主義」も採用します。
カナダにはイギリス系・フランス系だけでなく、古来より定住している先住民や、16世紀以降に押し寄せた多種多様な移民・難民が住む多民族国家でした。内乱の起こりがちな多民族国家を一つにまとめ上げるためには、民族間の平等は必要不可欠だったのです。
個々の文化・民族を尊重するばかりに、カナダとしてのアイデンティティが形成されないという問題点も指摘されていますが、現在のカナダにおいて民族的差別が少ない理由も、多文化主義が社会に深く浸透しているおかげでもあります。
二言語の公用語化や多文化主義政策を採用したカナダですが、ケベックの独立問題はまだまだ解決しません。1980年と1995年にはケベックの独立を問う州民選挙も実施されています。しかも、2回目の選挙では反対50.6%、賛成49.4%という僅差で、なんとか独立を免れたほど。
現在のケベックでは、独立派であるケベック党も野党になり、そもそも2018年のケベック州選挙では独立問題が選挙の焦点にもならなかったことから、ケベック問題は沈静化しているようにも見えます。ただ、今後何かのきっかけで、ケベックの独立問題が再燃する可能性も否定できません。
ケベック州の車のナンバープレートには「Je me souviens」(私は忘れない)というケベック州のモットーが刻まれています。これはフランス語、フランス文化を忘れないというフランスへの強い帰属を意味しています。
おわりに
以上、カナダの歴史を簡単に、そしてじっくりと、2段階でご紹介しました。
歴史をさかのぼると、いかにカナダがフランスとイギリス、そしてお隣アメリカという大きな国に影響を受けながら国家を形成してきたかが分かりますね。また、そんな中、アメリカ人でもなければ、イギリス人でもフランス人でもない、カナダ人としてのアイデンティティを模索してきたわけです。
カナダにフランス語圏があるのも、州旗にはイギリスのユニオンジャックやフランスのユリの花が掲げられているのも、そして、今のカナダ人たちが「アメリカ人と一緒にしないで!」と怒るのも、そんな歴史的背景があるからこそ。
歴史を知ると、今のカナダがもっと面白い!
私自身、今回の記事を書くにあたり学んだことも多くて、改めてそんな風に感じました。きっとそれは私だけではないはず!これからカナダに旅行に行かれる方も、留学や赴任で滞在される方も、カナダで生活されている方も、歴史を知ることで、より楽しく、より深い理解でカナダを楽しめると思います。
今回の記事が、カナダの歴史を知るきっかけになったら嬉しいです。長い記事に最後までお付き合いくださった方、どうもありがとうございました!
参考文献:カナダの歴史を知るための50章、現代カナダを知るための57章、もっと知りたいカナダ、The Canadian Encyclopedia、The Canada Guide
こちらが今回参考にした本の中の一つです。カナダの本にしてはかなり新しい本なので、より深くカナダの歴史を学びたいという方はぜひ手に取って読んでみて下さいね。